作者:劉心心
(原文為日文,在中譯文之後)
內容取自致給東京台灣之會 武田會長的信件
致武田會長
二〇〇五年十一月五日 大腸癌手術前日
對於我們一家人而言,談論在那一個命運之日所發生的事情,就像是剝開瘡疤切開傷口,而那一天的往事就如鮮血一般噴出,連要寫下來都痛苦得令人抗拒而不想提筆。但是想到我目前的年齡與健康狀況,決定還是要把握此刻將這些事以文字留下痕跡,因此鼓起勇氣提筆寫下。
一、晚餐
一九五〇年四月二日的夜晚。那時我們並非在廚房旁邊平常用餐的飯廳,而是在那間十個塌塌米大、招待客人用的大房間享用晚餐的途中。為了慶祝祖父生日而回到故鄉嘉義許多天的父母,在當天下午回到家中,而那時我們夫婦倆前一年才剛結婚,也正好前往拜訪他們,眾人便在大房間裡悠閒的享用晚餐。因為有些悶熱,父親只穿著白色襯衫與七分短褲(原文「ステテコ」,意指穿在內褲之上、外層長褲底下,長度過膝的一種短褲)的輕便服裝,和外子在交杯酌飲啤酒,兩人臉上都泛著紅光。同席的除了父母親與我們夫婦,還有在念高中的大弟、幼稚園的妹妹。小弟那時還在接受奶媽照顧,這個時間一定已在奶媽的房間裡休息了吧。
全家齊聚一堂的晚餐原本應是和樂融融的氣氛,但那天的話題也有些沉重,不祥的預感在環繞四周,大家都十分不安。
那個時代的台灣島上整體壟罩著緊張的氣氛。蔣介石高舉口號,表示「為了殺死一個共產黨份子,即使錯殺全村的人也不能放過」,而特務就憑此橫行無阻,誣陷潔白無辜的民眾。每天持續聽到的是強行帶離、在馬場町的死刑、發生槍殺的話題,每一個人都戰戰兢兢。
除此之外,父親協助原本東京藏前高工(現在的東京工科大學)時代同窗所經營的公司,有一位經理蕭先生,因為涉嫌參與共產黨而在幾天前被逮補。之前也有疑似特務的人兩次在深夜前來家中尋找父親,整體氣氛令人害怕。蕭先生和父親從留學以後二十多年未曾見面,而蕭先生雖然在戰爭結束後回到台灣,又因為沒有工作且經濟上有所困難,才前來拜訪父親。本來就注重友情的父親也只是就此給予援助。然而因為當時如此情勢,父親也有些在意這件事,因此向在戰前曾前往中國,成為當時國民黨特務頭子後回來的同鄉林某等人試探,詢問對方自己是否應該暫時藏身,得到對方回答說沒有問題。父親認為自己也並非曾經加入共產黨,或者做過其他壞事,便安心的從嘉義回到自己居住的地方。
等到事情發生之後,家中才從林某口中得知,因為父親與他們派閥不同,才被保密局的組織加以逮捕。雖然對方如此說明,但如今回想起來,或許那樣說法是為了從搶救父親性命而四處奔波的母親手中榨取財物。換言之,是他們的一種表面說詞。
等到日後解嚴,經由國民選舉促成政權交替之後,根據前保密局組織的組長谷正文所出版的回憶錄,其中談到關於逮捕父親的理由是:只要逮捕劉明,就可以沒收劉明所擁有的兩輛外國車。兩輛外國車分別是福特和奧斯汀,在戰後不久的台灣島上十分稀奇,因此對他們而言是垂涎欲滴的對象吧。事實上,那兩輛車的確馬上就被拿走了。令人不難想像的是,這兩輛車會成為那些下級官吏的獎賞,但我想更重要的是,因為對於受民眾尊敬且奉為領袖的劉明有所恐懼,國民黨真正的目的是要抹殺父親的存在,並進一步奪取他的財產。
二、逮捕與離別
晚餐即將進入尾聲之時,門鈴卻忽然響起,隨之而來的是粗暴敲打門扉的聲音,「劉先生在不在?」聽到這樣的叫喊聲,大家一瞬間都理解到「來找父親的特務又來了」,所有人臉色大變,母親則急忙要父親躲起來,父親也趕忙到後院中假山的背面藏身。弟弟上前應門,向對方說父親還沒有回來。然而對方乍看之下就此準備打道回府之時,一群人卻又突然鞋也不脫就踩上屋內。那些人大概就都是所謂的山東大漢吧,其中有好幾個男人十分高大,讓人感覺粗野又精悍。
他們馬上開始搜查屋內,還叫我跟著他們進去。他們也不脫鞋,大剌剌的踩上擦得光亮的塌塌米和美麗的地毯,直接闖入父親的書齋,問我說:「跟上海通訊的電報機在哪?」當我回答他們說沒有那種東西,他們便懷疑是藏在牆邊大書櫃的背面,把排放在上面的書從上到下都用手粗魯的掃落到地上。接著又闖入母親的房間找遍每個角落,連母親的化妝檯也被翻箱倒櫃,就是抽屜也都被拉出來丟到地上,然後對著我們說:「你們要看清楚,我們可是什麼也沒偷。」
後院裡養的狗在不停狂吠,雞舍的雞也在大聲騷動。
躲在後院的父親被找到了。「抓到了!」有人大喊一聲,接著父親就被拖拉到方才用餐的那個十個榻榻米大的房間。房屋裡的搜查全部就此打住,那群大漢中的其中之一對著家裡的人問:「這個人就是劉明嗎?」卻也不等我們回答,因為從一開始派出所的警員和不知道是鄰長還里長的人就已經被叫來,站在玄關等著被用來詢問確認父親的身分。在這件事發生後,我也曾經很生氣,認為就是因為這些狗都對穿著白色襯衫走過庭院的父親在吠叫,那些雞也開始騷動,才讓人發現父親藏身在這裡。這些笨狗連自己的主人也認不出來,還對著主人大聲吠叫,原本我是這麼想的。但實際上,當時住家四周有好幾輛吉普車圍住,原本的巷道幾乎水洩通,戒備十分森嚴,或許牠們因此陣仗感到驚嚇不安,才開始一齊狂吠吧。
那群大漢的其中一人,也對著同席的外子詢問勤務地點,當外子回答說是台灣大學附屬醫院時,就說「台大的話,仔細查一下也可以找到把柄的。」但是另外一個人說:「光是今天這條大魚回去就有很多事可以做了。」外子因此幸運的逃過一劫,而雖然他本人沒有察覺,但我確實的聽到了這番話,也著實替他捏了一把冷汗。
當時已經下班的司機張先生也在這時候馬上被叫出來。現在回想起來,大概是因為那群人當中沒有一個人會開車吧。令人難過的是張先生也因此被拘留了三個月,被迫在監獄裡度過痛苦的生活。另一台奧斯汀車的司機也是連車帶人的被強行帶走,而這位司機則是稍快一些就被釋放回來。
福特車是在很久之後,等到父親判決後才有歸還通知。然而根據前往領回車子的人所言,不僅車輪一個也沒留,車子裡面能偷的零件也全被偷走,只剩下一個外殼的「車」回來。
父親要從家中玄關出門被帶走之前,母親向那些大漢懇求,說外面那麼冷,至少讓父親穿上大衣,然後遞出在上海買的最好的外套。當然那些大漢當場是答應了。但是那件結實厚重的高級大衣在那之後也沒有回到我們手中,不難想像大衣是馬上就從父親身上被剝下來。父親穿上大衣,轉身面向屋內,對著站在玄關的我們說:「不用擔心,我馬上就會回來。」雖然父親對我們這麼說,但是那時他看著我們,內心又究竟是多麼難過。玄關除了我們一家人,還有兩位負責煮飯的阿姨以及兩位女傭,抱著么弟的奶媽,剛好在現場的奶媽丈夫。所有人都出來站在玄關,哭著目送父親。等到司機張先生也抵達後,父親被催促著走出玄關,但他是平靜且保持威嚴,緩慢的踏出步伐。父親坐上自己平常使用的車(福特,車號1903),讓自己的司機開著車,就這樣被人強行帶走。看著父親被帶上車,車子駛過巷道,我拼命的叫著「阿爸、阿爸」,一邊沿著入夜的道路追跑著。
日後聽張先生說,當時車裡的那些特務聽到我的喊叫之後,發出嘲諷的笑聲。那時妹妹也哭喊的叫著「爸爸、爸爸」。
然而有一件事是我後來才知道的:其實母親那時已懷有身孕,胎兒卻因為如此驚嚇而意外的流產。當時不論是父親或母親,都希望能有更多的孩子,如此結果實在令人感到難過。
關於這件事,母親其實也一直沒有說出,也沒有表現在其他任何行為舉止上。當時我在拼命想辦法要搶救父親,也沒有機會得知如此狀況,是到相當後來才曉得這件事。
三、生死不明,以及特務的妻子們
父親為什麼會被帶走,又是被帶到哪一個機關,我們也無從得知。然而從那一
天晚上開始,我們一家就開始尋找父親的下落。
那時候我身上懷著長女也已有四個月,但是車子被拿走後我們的交通工具就只
剩下三輪車。那時父親所居住的仁愛路附近還有許多田地,道路也沒有鋪上柏油路,三輪車行駛過鋪滿石子的路面,不僅會前後左右搖晃,有時車身還會彈跳到令人驚嚇的高度。那時外子的母親也很擔心在腹中的胎兒,但我只是一心一意的想要找到父親,將他救出來。只要有任何一點線索,我和母親都會不分晝夜的奔波前往。
父親在留學日本時的友人律師湯先生也在這時伸出援手,幫助不僅對法律不清楚、就連中文也才剛開始學習的我們,著手寫陳情書。父親在藏前高工時期同窗的北投葛先生等人,也幾乎每天前來和我們商量該如何處理如此情形。那位林某也據說和指揮特務的人有直接往來,我們也幾乎每晚都去拜訪。外子因為擔心我和母親的安危,夜晚有要去拜訪別人時,總是和我們一起前往,然後在對方家門外的黑夜中,一邊忍受著黑斑蚊的襲擊,一邊等待我們母女出來。
然而林某總是過了深夜才回家,有時甚至到將近黎明時才現身。每此見面時,林某總是帶著一身酒氣,用一張泛紅的臉回答我們說:「很可惜啊,今天的會議裡還是沒有談到劉先生的事。或許明天晚上的會議就會知道結果了。你們明天再來吧,等我幫忙說幾句話,明天一定會有好答案的。」然後他的妻子便會固定在這個時機對我們開口說:「其實我們需要回去掃墓的旅費」,用類似如此的話題來向我們要求金錢。母親既沒有其他可以求助的人,又希望父親能夠早一天獲救回家,只好每次都包了好幾萬的錢或黃金給對方。有一回外子的母親來到台北,大概是看到母親在為此準備金條,便向我提起這件事。我因為害怕這樣私底下的利益交換若被發現,會造成父親性命的危險,因此強烈的否定有這件事。身為接受日本教育的人,我們認為明目張膽的把錢交給林某的妻子,會讓對方覺得很尷尬,因此總是一邊把裝有金錢的包裹輕輕的放在桌子底下,或者包裝成送禮用的餅乾點心禮盒,一邊對著對方說:「麻煩您了。」現在
回想起來,對於那樣卑鄙下流的小人,這樣的顧慮十分的可笑,或許要直接丟到對方臉上才更好一些。
不只是林某,我們也拜訪了有日本人妻子、又會講日語的「長官」。這位「長官」據說位階接近政府中樞,是身為特務方面的長官。父親的三兄是國大代表,或許是因此認識。由於這位伯父是嘉義有名的眼科醫生,我們藉口說要把「長官」想要的眼藥水帶過去而前往訪問,但是我們的目的當然是有關父親的事情,帶過去的東西也就不會只有眼藥水。對方的日本人妻子因為可以用相同語言溝通,因此也稍微有過談話。
這些做特務的男性們,就連他們妻子也相當厲害。例如其中有一位妻子談到丈夫與其他女人往來而引起紛爭,甚至把手槍秀給我們看,說自己就是用這個來對付其他女人。在戰爭時期的日本時代,我做為一個女學生也曾在學校裡被迫接受軍事訓練,而平時都有竹槍訓練。但即使平常有訓練,我也只有扛過一次槍,甚至不知那到底是村田步槍、三八式步槍還是什麼手槍。又或者,我也曾經看過父親拿著獵槍在草山的後山追著兔子。然而這是我第一次看到實際戰場上所真正使用的手槍。原來手槍不只是用來和敵人作戰,在女人們充滿忌妒的戰爭裡也會派上用場。這些如此凶暴的女人如果真要對付當時老實的台灣人,或許就會像扭斷嬰兒的手臂一樣簡單吧。
四、思想犯
那時還沒有白色恐怖的稱呼,而被逮捕的人都被稱做思想犯。思想犯的家人們會被看作是同類,周遭的人也非常害怕與他們產生關聯。到前一天為止,原本來拜訪家裡的客人還多到兩位女傭得從早到晚忙著準備茶水與點心,卻都忽然消失蹤影。即使是親戚要來拜訪,也都偽裝成要拜訪我家後面的舅舅一家,再從那邊悄悄的來到我家儲放的後門,回去時也都使用舅舅家的玄關。此不論是誰都害怕與我們家發生關聯,就連每天早上賣菜的阿伯一接近我們家,原本高亢的叫賣聲馬上消失,靜靜的避開門口通過道路。
那是既不知父親被關在哪裡,也不知道人究竟是生是死的時候。每天在馬場町都會有死刑犯被槍殺,一大早被槍殺者的名字就會被張貼在台北車站前。被張貼的紙上,那個人的名字上會被用紅筆打上一個「X」字做記號,而名字會被紅筆由上而下一筆劃掉。這就是這個人被處死刑的標示。母親一邊為了父親的事情奔走忙
碌,另一邊也幫忙看管父親的事業,但儘管身為實業家的夫人,對於至今主要在家庭裡奮鬥的母親而言,負擔過於沉重,事業一方傾倒。即便如此,還是有職員在公司內,所以母親每天早上都會派人到車站前看被張貼出來的紙,而我們要等到職員回來報告說:「上面沒有社長的名字」,才終於放下心來打開報紙。父親被逮捕的事已經上了報紙,而且他是有名人,我們認為若有發生什麼事早報一定會有消息,所以等到職員回來以前,我們沒有勇氣把報紙打開。
五、判決
度過漫長歲月後的某一天,我們終於被允許與父親會面。這是因為判決已經出來了。那一天父親明明知道日本留學時代的朋友蕭先生是共產黨,卻還是給他活動資金,因此逮捕的理由是「幫助匪賊」。蕭先生很快的就在監獄中死去,妻子也被迫改嫁給特務,現在也沒有聯絡,所以也不知道事情的真相。妻子也被迫改嫁給特務,現在也沒有聯絡,所以也不知道事情的真相。但是可以推測的是,蕭先生大概難以忍受拷問,而依照對方要求的內容來被迫「自白」,因此造成父親受到如此判決。對他們而言,只要能抹殺劉明這號人物就好,因此這當然是冤罪。
判決結果是實際服刑十
年,褫奪公權十五年,沒收所有財產。然而與大多數的人相比,起碼是救回一條命(的人?),可以說是不幸中的萬幸。在那樣的時代下這句話是可以說得通,但這全要歸功於為了救丈夫一命而不惜傾家蕩產、拼命奔走的母親。
第一次在獄中會面時,父親消瘦得蒼白而不成人形,行走似乎也十分困難。由於周遭
還是有人在監視,父親對如此狀況也沒有多說什麼,然而他那樣無法支撐身軀而幾乎要倒地的狀況,正是因為拷問時所受的傷還沒有痊癒。那時父親曾對我說,總算可以「看到一點光明」,當時我將這句話解釋為父親自己的性命總算得救。但是如今回想起來,那時父親第一次從地洞般的牢房走出,來到有太陽光所照射的空間,或許那句話指的是這樣的狀況。也許是回想這些過往讓人痛苦,父親似乎不太願意提起判決前自己在獄中所經歷的事情,而等到父親去世後,我也失去機會向他詢問這句話真正的意涵。
去年政府頒發證書給父親和其他白色恐怖的犧牲者,希望能藉此回復眾人的聲譽。然而我卻從不認為父親被國民黨政府逮捕是一件不名譽的事。事實上正好相反──不如應該稱讚們,能夠忍耐如此痛苦經歷而成功的生還歸來。
父親所蒙受的如此殘酷且不合人道的拷問,世間早已窮盡筆墨去描述。旁人常對我說,父親能夠承受如此漫長拷問,而沒有造成任何一個無辜的犧牲者,實在難能可貴。身為女兒的我也因此代替父親的立場,經常受到受刑者及白色恐怖生還者的善意對待。然而儘管周遭的人不斷稱羨我們家的幸運,被讚揚其美麗的母親,在經濟方面卻再也沒有好轉,終生過著貧困的生活,比父親還要早許多時日便離開人世。
然而無論多麼貧窮,母親始終沒有屈服於困境,隨著年歲增長而保有合宜的美麗,同時也維持著自身最佳的氣質。母親如此的人生,對於身為子女的我們而言,不僅是最高的驕傲,也是癒合我們內心傷痛最大的寬慰。
當時四十九歲的父親擁有工作熱忱,也正處於事業巔峰,有如一艘順風滿帆的船隻。然而這艘船的未來卻在一夕之間被摧毀。那一個命運的夜晚,如今只是想起都會令人渾身顫慄,卻也終究被我寫下。
在台灣曾經發生如此殘暴的故事,如今卻遭到國民黨的殘餘黨羽奮起否定事實
。在今日幾乎要被遺忘的事實,卻是實際在台灣發生過的事實,我在此將之紀
錄下來,作為這篇文章結尾。
歷史的真相絕對不應被抹煞,而我真心祈求今後永遠不會再發生相同悲劇。
大腸癌手術前日 2005年11月4日
刊載於友愛第七號
(原文)
運命の日
東京台湾の会 武田会長への手紙より
武田会長様へ 二〇〇五年十一月五日 大腸癌手術の前日
私達の家族にとっての、あの運命の日のことは、カサブタを剥いで傷口を開けるようなもので、あの日の事が鮮血の様に噴出すのが苦しく、書くのも辛くて書きたくなかったのですが、私の歳と健康状態を思い、今のうちに文字として残さねば成らないと、勇気を奮い起こしました。
一 夕食。
一九五十年四月二日の夜。私達は、普段食事をとっている台所脇の食堂でなく、来客用の十畳の大部屋で夕食の最中でした。祖父の誕生日祝いに故郷の嘉義に数日行っていた父母が、午後戻ってきたのを、その前の年に結婚していた私達夫婦が会いに行ったので、大部屋でのゆったりした食事にしたのです。少し蒸し暑かったので、父は白いシャツとステテコだけのリラックスした格好で、主人とビールを飲み交わし、二人とも顔を赤く火照らせていました。在席していたのは、父母と私達、高校在学中の大きい弟、幼稚園児の妹。小さい弟は、まだ乳母の手の中で、その時はきっと、既に乳母の部屋で休んでいたでしょう。
家族全員のそろっての夕食は、本来なら和気藹々とした楽しい夕食になる筈でしたが、その日は話題も少なく重苦しい気分でした。嫌な予感で皆不安だったのです。
その頃の台湾は、台湾全体を覆う不穏な空気に満ちていました。蒋介石の「一人の共産党を殺すためには全村人の誤殺も辞さない」と言うスローガンの下に、無垢の民衆を罪におとしいれ、横行している特務。連日聞こえてくる拉致、馬場町での死刑、銃殺の話。誰もが戦々恐々としていました。
それに、数日前、父が東京の前蔵前高工(現在の東京工科大学)時代の同窓に経営させていた会社の経理、蕭さんが、共産党嫌疑で捕まったと言うこともあり、前にも、二回ほど夜遅く特務くさいのが父を捜しにやって来た事もあり、不気味な感じがしていたのです。蕭さんと父とは、留学以来、二十年余りも会っていなく、蕭さんが、終戦で台湾に戻ってきたが、仕事が無く、経済的に困っている。と父を尋ねて来たので、元来が友情に厚い父が援助してあげただけのことです。でも時勢が時勢ですから、父もこの事は気にしていて、戦前に中国に渡って、当時、国民党の特務頭になって戻ってきていた、同郷の林××などに、身を隠すべきかと打診したところ、大丈夫との返事だったし、別に共産党に参加したこともなく、何一つ悪いこともしていないので、安心して嘉義から自宅に帰ってきたのでした。
あとから、その林××が、父は彼等とは派閥が違う、保密局の組織に捕まったのだと言っていましたが、今にして思えば、それは父の救命に奔走する母から財物を巻き上げる為の、彼等の仮面だったのかもしれません。
後日、戒厳令解除、国民の直接選挙に拠る政権交代後、前保密局の組織の組長、谷正文が出した回顧録に拠ると、逮捕の理由は、劉明を捕らえれば、劉明の持っている二台の外車が没収できるからと言うのだったとの事。二台の外車はフォードとオースチンで、戦後間もなくの頃の台湾では珍しく、彼等にとっては、垂涎の的だったのでしょう。事実、その二台はすぐ持っていかれました。それが下級捕吏共の奨励品だったのだとは考えられますが、国民党の真の目的は、民衆のリーダーとして尊敬されていた劉明をおそれ、父を抹殺し、財産をぶんどるのだったのだったと思います。
二 逮捕 別れ
食事も終わりかけた頃、突然、呼び鈴がなり、門を荒々しく叩く音がして、「劉先生在不在」(劉明さんは居ますか)と言う呼び声。一瞬、又来た!!と、皆顔色を変え、母は急いで父に隠れるように言い、父も急いで裏庭の築山の蔭に隠れました。弟が応対に出て、まだ戻っていないと答えると、相手は大人しく踝を返すかに見せて、急に土足で踏み込んできました。山東大漢と言うのでしょうか、何人かの、物凄く大きな、野卑、精悍な感じの男達でした。
すぐに家宅捜査が始まり、私に、付いて来るようにと言うと、綺麗に拭かれた畳の上、美しい絨毯の上を、ずかずかと土足のままで踏み、父の書斎にまで踏み込んで、「上海との連絡の電信機は何処か」と聞くのです。そんなもの無いと答えると、壁際の大きな書棚の裏側を疑って、並べてあった本を片っ端から乱暴に床に払い落として探し、次に母の部屋に踏み込んで、母の化粧机の引き出しまでも片っ端から引き出して床に投げ、「よく見ろ、我々は何も盗っていない」と言うのです。
裏庭で飼い犬が盛んに吠え、鶏小屋の鶏がけたたましく騒ぎ出していました。
父が隠れていたのが見つかったのです。「捕まった」と大声がし、父が、今まで食事をしていた十畳の部屋に引き立てられるようにして連れてこられました。家宅捜査は打ち切られ、あの大男の中の一人が「この人は確かに劉明か」と家人に聞きましたが、私達の返事を待つまでも無く、初めから、父の身柄確認の為に派出所の巡査と隣長だか里長だかが呼ばれて来ていて、玄関に立って居たのでした。
後で私は、白いシャツで庭を歩く父を犬達が吠えた為、鶏が騒ぎ、それで父が隠れているのが知れたと思って、主人をも判明できずに吠えたてた馬鹿犬め。と随分犬を怒りましたが、実際は家の周囲を何台ものジープで隙間無く囲んでいた彼等の物々しさに驚き、不安を感じた犬達が一斉に吠えたのでしよう。
彼等のうちの一人が、在席していた私の主人に勤め先を聞いたので、主人が台湾大学付属医院だと答えると「台大なら叩けば何かほこりが出てくる」と言うのを、もう一人が 「もうこの大物だけでも帰ってからすることがたくさんある」 といったので主人は、危うい所で難を逃れました。耳の遠い主人には聞こえなかったのですが、私には聞こえて、息も詰まる思いでした。
すぐに、退勤していた運転手の張さんが呼びだされました。今思えば、彼等は誰一人運転が出来なかったのでしょう。気の毒に、その張さんもそのまま三ヶ月ほど留置され、苦しい監獄生活を余儀無く強いられました。もう一台のオースチン車の運転手も車ぐるみ拉致され、こっちの方は少し早めに戻されたようでした。
フォード車は、ずっと後、父の判決後に返還通知があり、受け取りに行った人の話では、車輪は一つも残っていず、車の中の部品も盗れる物は全部盗られて、ただの外殻の鉄だけの「車」だったとか。
父が連行されて玄関を出る時、母は、かの大男達に、寒いから、せめてオーバーコートでもと、上海で買った一番上等のオーバーコートを父に着せるよう頼みました。勿論、彼等は承諾しました。そのずっしりと重さのある高級コートはその後戻っては来ませんでしたし、そのコートがすぐにも父から剥ぎ取られたのは、想像に難くありません。
父はオーバーを着ると内側に向けて立ち、並んでいる私達に 「すぐ帰ってくるから心配しないように」と言いましたが、あの時の父の、皆を見る気持ちはどんなに辛かったことか。玄関には私達家族のほかに、炊事の小母さんと二人の小間使い、末の弟を抱いた乳母、丁度来合わせていた乳母の夫、と、家中総出で出ていて、皆泣いていました。運転手の張さんが着いて、促されて玄関を出る父は、落ち着いて、威厳を保ち、ゆっくりと歩いて出ました。父は、自分の常用車(フォード、車両番号1903)で、自分の運転手の運転で強制的に連れていかれたのです。乗せられた車が路地を走り去るのを、私は必死になって「阿爸ー 阿爸ー(おとうさーん おとうさーん)」と叫びながら夜の道を追って走りました。
後日張さんが言うには、私の叫び声を車の中の特務達が聞いて、せせら笑っていたとの事でした。妹も、「パパー パパー」と泣き叫んでいました。
後で知ったのですが、母はその時身籠っていたのでしたが、そのベビーは、ショックで流産してしまったそうです。当時、父も母も、もっと多くの子供を欲しがっていましたのに・・・・・・・・。
母は、その事をずっと黙って気振りにも出さなかったし、父の救出で必死だった当時の私は、そんな事を知る由も無く、ずっと後になってからその事を知ったのでした。
三 生死不明 特務の妻達
父がどの機関に、どういう訳で、何処に連れ去られたのか。私達には知る由も無く、その夜から、私達家族の父親探しが始まりました。
私は長女を身籠っており、四ヵ月でした。車を取られてしまった私達の乗り物は三輪車。父の住んでいた仁愛路の辺りはまだ田畑も多く、道も舗装されていませんでしたので、ゴロゴロの石ころ道を行く三輪車は、前後左右に揺れるばかりか、時には驚くほど高く跳ね上がることもありました。主人の母がお腹の子を心配していたようですが、父を探し、救出するのに必死な私には通じません。一寸でも手がかりらしいのがあると、私と母は、昼と無く、夜と無く奔走を続けました。
父の日本留学時代の友人である、弁護士の「湯さん」は、法律をよく知らないばかりか、中国語すらも習いたての私達に、陳情書を書いてくれる為。そして、父の蔵前高工時代の同窓だという、北投の「葛さん」等が毎日のように相談に来ていました。あの林××は、特務頭で直接中に通じるということから、毎夜のように訪ねました。主人は、私と母の事が心配で、夜の訪問のときには、一緒に付いて来て、その家の外の暗闇で、薮蚊に襲われながら私達親子が出てくるのを待ってくれていました。
林の帰宅はいつも深夜過ぎ、時には黎明近くになることもあり、其の度に「残念だが、今日の会議ではとうとう劉先生の事は出なかった。明日の夜の会議で結果はわかるだろう。明日又来なさい。私の言い添えで、明日はいい返事が出来るだろう」と酒臭い赤ら顔での返事。そしてその妻は決まって「実は墓参りに帰る費用がほしいのだが」といった金銭の要求。母は、他に頼るところも無いし、父の命が助けられ、一日も早く帰れたら、と言う気持ちでしたので、仕方なく毎度何万と言う大金や黄金を包んで行ったのです。ある時丁度主人の母親が台北に来ていて、母がその為の金の延べ棒を包んでいるのを見たのでしよう。私にその事を話したので、私は秘密の取引がばれて父の命に関わったら大変と驚いて、強く否定したものでした。日本教育を受けた私達は、お金を林××の妻に渡すのも、はっきり出したら相手が気まずい思いをするだろうからと、「お願いします」といいながら、そっとその金包みを机の下に置いたり、菓子折りに仕立てたりしたのですが、今から思えばあんな卑劣下等な輩達に、そんな気使いは笑止千万、顔にでも投げつけてやっても良かったかもしれません。
林××ばかりではなく、何とか言う日本妻を持った日本語の出きる「長官」の所にも行きました。この「長官」は、政府の中枢近くに居る人間だと言う事で、(特務関係の長官)父の三番目の兄が国民代表をしていて知り合ったのでしよう。この伯父は嘉義の有名眼科医でしたので、「長官」が欲しがっていた目薬を届けに。と言う口実で、訪問したのですが、勿論父の事が目的でしたから、持参したのも、目薬だけではありませんでした。この人の日本人妻とは、言葉も通じるので、少し話もしました。
この特務連中は、妻達も結構凄く、夫の女性関係の争いの話しなんか凄いもの、彼女らの一人から、これで、女同士で打ち合いをするのだと、ピストルと言うものを見せ付けられました。戦時下の日本時代、女学生だった私も学校で軍隊教練等させられ、日頃の竹槍訓練中のある日、村田銃?だか、三八銃?だか、を一度だけ担いだ事があり、草山の裏山で兎追いを楽しんでいた父が猟銃を持って居たのも見たこと事が有りましたが、実戦に使う、本物のピストルをみたのはこのときが初めてでした。ピストルは敵と戦うのに使うばかりではなく、女同士の嫉妬の戦いにも使っていたのでした。凄いあばずれ達です。こういう連中にかかっては、当時のおとなしい台湾人をやっつけるのなんか、赤子の手をねじるようなものだったのでしよう。
四 思想犯
あの頃、白色恐怖と言う言葉はまだ無く、捕らえられた人は思想犯と言われていました。思想犯の家族も同類と見られ、かかわりを持つ事は非常に恐れられていました。前日まで、それこそ、二人の小間使いが茶菓の接待に明け暮れるほど多かった来客が、ぴったりと無くなり、親戚が訪ねてくるのも、裏に住む叔父を訪ねるという形で、叔父の家からそっと私の家の勝手口に入り、帰りも叔父の家の玄関を使っていました。誰も怖がって寄り付かず、毎朝来ていた野菜売りのおじさんまで、私の家に近づくと、何時もの甲高い呼び声を出さずに、そっと避けて通っていました。
父が何処に監禁されているのか、生死の程もまだ知れずにいた頃。毎日馬場町で死刑犯の銃殺があり、早朝、その朝銃殺された人の名が台北駅前に張り出されていました。それは、その人の名前の上に朱筆で×印がつけられ、名を朱筆で名前の上からすっと入れて消されたのが、死刑にされた印だとのことでした。母は、父の事で奔走する傍ら、父の事業をも見ていましたが、今まで事業主の奥様として家庭に居た母には荷が重すぎ、事業は傾く一方。それでも、職員はまだ居ましたので、母は毎朝、張り紙を見に職員を駅前にやり、私達は、「社長の名はありませんでした」の答えにやっと安心して新聞を開けたものです。父が捕えられた事は新聞にも出ており、有名人でしたから、何かあると必ず朝刊にでると思って、職員が帰ってくるまでは、新聞を開ける勇気が無かったのでした。
五 判決
長い月日が過ぎたある日、とうとう、私達に、父への面会が許されました。判決が出たのです。あの日本留学時代の友人蕭さんが共産党なのを知っていて、活動資金を上げていた、「助匪」というのが理由。蕭さんは間もなく獄死し、奥さんも強引に特務の妻にさせられ、現在は連絡も有りませんから、真偽の程はわかりませんが、蕭さんが拷問に耐えかねて、彼等の要求通りの自白?をさせられた上での父の判決だったとも考えられます。彼等は、劉明と言う人物を抹殺出来れば良かったので、勿論有らぬ濡れ衣です。
初めて面会した時の父は、別人のように痩せて青白く、歩行も不自由なようで、父は何も言いませんでしたが(監視付では)今にも倒れそうな様子だったのは、まだ拷問の傷が治っていなかったのでした。
私に、此れでやっと「明るみに出られた」と言いましたのを、私はこれで命が助かったと解釈しましたが、あれは、あの時初めて、穴倉のような暗い獄房から、太陽の明かりのある場所に出てきた。と言う意味だったのかと思います。父は、思い出すのが辛いのか、判決前の獄中の事は言いたがりませんでしたので、その真意はとうとう父の在世中に聞きそびれました。
去年、政府は父達白色テロの犠牲者に、名誉回復の証書を下さいましたが、私は、父が民党政府に捕らわれた事を、不名誉とは思っていません。むしろ、あの苦しさに良くぞ耐えて、生きて帰って来た。と褒めてもらいたかったぐらいです。
父の蒙った残酷、非人道的な拷問などは、筆舌に尽きるもので、その拷問に耐え抜き、為に、一人の有らぬ犠牲者をも出さなかった事実は良く聴かされ、父の娘としての私は、そのお蔭で、以前の受刑者、白色テロの犠牲者だった方々に、父に代わって大切にされていますが、あんなに傍から幸せと謳われ、その美しさを誉めそやされていた母は、あれから一度も経済的に良くなった事が無く、一生貧乏をして、父よりずっと先に亡くなりました。
しかし母は、どんなに貧乏でも、逆境にめげず、老いたら老いたなりに美しく、常に最上の気品を保っていました。そしてそれは、私達の、子女としての最大の誇りでもあり、心の傷を癒す慰めでもありました。
当時四十九歳。働き盛りで事業も順調。順風を帆一杯に膨らませた船の様な父の将来が、一瞬にして葬り去られてしまった、あの運命の夜。思い出すだにおぞましいあの夜の事。とうとう書きました。
台湾に起こった残虐物語。国民党の残党が躍起になって否定しているこの事実。今にも忘れられそうな、こんな事実が台湾に実際にあったと言う事を書き記してこの文を閉じます。
歴史の真相は、絶対に抹殺されるべきべきではなく、この先、永久に再びこのような悲劇が起こることがないようにと祈りつつ。
大腸ガン手術前日 2005年 11月4日
友愛第7号に掲載
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